2011/10/18

manifesto

IZIDOA discと自分のレーベルに名前をつけたのですが、フィリップ・K・ディックの、かの有名な「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」に登場するイジドアからとりました。単に最も好きな登場人物と言う事もありますが、キップル(全てを覆い尽くし、なんの意味もない、空虚なモノにしていってしまう物質?の事をさす、ディックの造語)にまみれて、特殊扱いされても誠実に情を持って生きているイジドアに、その風景に、霊感を感じ刺激される所があり、拝借しました。

音楽について。

昨夜ヒロシワタナベさんのライブを聴きに行きました。昨夜の演奏は、私にとって大切な感覚である、「時を超える」感覚を感じる事が出来た、『音楽』でした。「時を超える」と言うのは、全く私の体験から言っている事ですが、伝わりにくいかもしれないです。説明してみますが、それは言ってみれば『時が過ぎて行く』とか、『過去や未来』と言う時間の流れの根底に、ずっと変わらずにある「別の層の時間」を感じる、と言う意味での「時を超える」です。

これを初めて感じたのはMODEL500のライブの時でした。強烈な体験なので忘れません。そして、今、私にとっての音楽の意味はその感覚を感じる事、です。夢の様な話ですね。

私は音楽を文化と捉えている訳ではないのです。私の音楽のスタートは、クラシック音楽を訓練の様に学び、音に対する「感情」を表現する事のみに集中する、と言う、ちょっと特殊な状況が始まりでした。そう言う風に育って来たので、カルチャーとしての音楽と言う捉え方はしません。何年代の音楽、と言う捉え方もしません。

なので、『次はどういう音楽が新しいか』『こういう感じで音を出すのは刺激的だ』『この文化とこの文化を融合させたら凄い事になる』という考えから音楽を作ったり捉えたり感じたりはしません。できないだけです。私が音楽を感じるのはむしろ、音楽以外の事からだったりします。イメージが1番大切です。

「新しさ」は既にキップルにまみれていると思います。私は音楽を通して、流れを感じて深く沈み込みたいと言う願望があります。その沈み込んだ先には、先ほど言った「ずっと変わらずにある時間」があると感じているのです。もしかすると、音楽の原点はそこにあったのではないかと憧れたりもします。とても原始的な段階において。そして、私は、ホアン・アトキンスの音楽に、メビウスの絵に、デリックのkaotic harmoney に、ディックの「ジョンの世界」にそれらを感じているのです。

手法は、いまや器用であればなんでも出来ると思います。ニューウェーブ風に、テクノ風に、現代音楽風に、室内楽風に、フランス音楽風に、民族風に、ノイズ風に、サンプリングで、ポップに、ブラックに、ホワイトに、イエローに、、既にサンプルがあふれています。表し方はなんでも良いのですが、私は「時を超える」感覚を求めています。それは夢を見させるからではなく、大友良英さんが言う様に「現実を生き抜く力」が含まれているからだと思っています。

と言う事で、その憧れの音楽を『BIO MUSIC』と名付け、"Night of the Vision"のライナーに書き込んであります。

私もこれから、ギャビン・ブライヤーズの"Jesus' Blood Never Failed Me Yet"の様な、Kid Koalaの「moon river」のプレイの様な、美しい音楽の表し方、、Joni Mitchellに永遠に詰まっている美しい手法、色々な手法を通じて追い求めて行きたいと思います。

IZIDOA disc マニフェストでした。

1 件のコメント:

頑固親父 さんのコメント...

アルバムを擦り切れるほど聴きました。
レコードじゃないから擦り切れはしないけど・・・

1960年代生まれの感想としては前作と違う方向で例えると「EL&P」とか「ピンクフロイド」のように一枚全体で構成されたアルバム。早速、i-podにいれ車で流している。※シャッフルだけど。

このアルバムをライヴで聴きたいな~。