音楽があまりにも満ちているために静止して見える、心の中の風景。音楽が、今にも張り裂けて怒涛に流れてくるのを待っているような風景。そういうものが、一昔前からはっきりしている。
それは濃紺の闇の中で、目を凝らしていると目が慣れてきて、やっと自分の掌の輪郭がうっすらと白くぼやけて見えてくるような、わずかな光の中にいるような・・そのような視界の世界。絵が描けたらどんなに良いかと思うくらいはっきりとしていて、いつかそれを音楽に表そうと思っている。
あまりにも没入したい音楽のイメージがあると、できるだけそこから目をそらしてしまう癖がある。それはきっと、音に表してしまうことへの躊躇、表した時点で違うものになってしまう恐さから来るものであり、また、美味しいものは最後に食べたいという性分もあると思う。が、あまりに目をそらしている時間が長いので、音楽が遠くに行ってしまったような気がした。
でも、これはスイッチと言えると思うのだけど、ひとたびイメージの中の焦点を「そこ」に合わせさえすれば、何かが湧き上がってくるのをいつも感じる。それを感じると安心する。湧き上がるものをかき集めて、そこから形を取り出すのは片手間ではいかないもので、全身全霊そこへダイブしないと取ってくることはできないと思う。
なりふり構わずダイブしたいものだけど、それ即ち生活がどうでも良くなるダイビングなので、中々飛び降りることができない。大きな問題は、日常生活の中でどう創り続けていくかということなのだと思う。生活と切り離すわけではなく、一枚隔てた場所に、創造の層の存在を意識する、忘れないでいるということ。
ジョージア・オキーフが「人生の中で、喜びは短く、ひと時に過ぎない。大事なのはその合間にある長い時間」というような事を言っていたと思うけれど、それに近いのかもしれない。創造に没頭するのは、たとえ短くとも幸せである。その短い創造の道中、さらに短いひと時の鋭い喜びを感じることはあれど、ほとんどはただひたすらに歩き、止まり、待つのみ。完成に至るまでの道のりは途方もなく長く果てがなく、時に完成しない。
そして、ほとんどは没頭する以前の生活の時間なのである。であるからこそ、心の中にある”層”を常に忘れないことは、本当に大切だと思うのです。
全身全霊ダイブして、生活がどうでも良くならないと音楽って作れないのか?という不満と疑問から、別の角度で音楽を表していく方法を考え出して2、3年ほど。それがとても知的に楽しくて、その方法ならばあらゆるものと音楽を繋げることができる。自力Max/MSP(今では、「ど」が付くほどの定番プログラミングシステム)と言えなくもない。 そのように作っているものが2、3。
だがしかしダイブintoして、自分の中の根に触れるように創る音楽にも、そろそろ飛び込みたい欲望が。何故ならそれが最も心の底の部分を救うから。そのように作りかけているのが、1、2、3、、。そして、こういう作り方をしているときに見る夢というのが非常に面白い。多分脳の使っている部分が違うのだと思う。