2016/02/28

Caribou

Photo by Michio Hoshino
 
星野道夫氏の写真集を見ていた時、カリブーの親子の写真が目に止まった。様々な色と生命に溢れきっている大地にすわり込み、遠くの何かを見ている写真だった。人が住む世界とはかけ離れている大自然の中、カリブーはそれを美しいとも素晴らしいとも思うこと無く、ただ息づいている。誰がこのカリブーの名前を知っているのだろう。他のカリブーが?この写真が撮られたあと、この母カリブーは子供とともにどこへ去っていき、今は生きているのだろうか。きっと生きてはいないだろう。

ふと、「このカリブーは私だ。」と思った。このカリブーの様に生きていたい、と言う事に近いのだと思うけれど、少し違う。憧れるような気持ちでは無いようだ。この、目も眩む様な大自然の中で、生命として在り、消えていく名も無き生き物と私の間に、何の違いがあるだろうと思ったのだ。特に哲学的に考え込んでいる最中ではなく、娘がバギーの上で寝てしまったために時間が出来たので、図書館に立ち寄ってパラパラと写真集を見ていた時にふと感じた事だ。

このカリブーと同じだ、と思うことはとても自分を安心させる。とても心地が良い。 誰の目に止まっても止まらなくてもいいのだ、名前さえ無くてもいいのだ、でも意志を持ってやってきて、やがて去っていく。

岡潔氏の、「春のスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。」と言う言葉がわかった気がした。 

2015/12/29

berlin 2015

2015年も残すところ数日。しかし今年は今までに増して年を越す事に対しての感慨がない。私にとって新年とは、冬至を過ぎた頃に始まるという感覚がある。その日を境に徐々に日が伸び夏至に向かっていく感じは、実にパワフルでとても好きだ。まだまだ冬真っ盛りではあるのだけれど、確実に夏に向かっている、未来に向かう感じがする。

今年一番の出来事は間違いなく、娘とドイツを訪れ、マニュエル・ゲッチング氏のお宅にてワインと会話を楽しんだ事。そしてダルムシュタットで行われた友人の結婚パーティーに行った事。これにつきる。

2歳3ヶ月の娘との海外遠征はもちろん不安ではあったけれど、予想をはるかに超えて楽しい旅だった。まるで我が街を行くようにベルリンの街をずんずんと歩いて行く娘の頼もしい事。彼女にとっては、ベルリンだろうが東京だろうがそう変わらないはず。むしろ、私の心の高揚に反応していたのかもしれない。とにかく娘は楽しそうだった。 
 
 

マニュエルとの再会。この日の夜にルッツ・ウルブリッヒとのリハーサルがあり、数日後にはオランダでの公演を控えていた忙しい最中に自宅に招いてくださった。近々引っ越すので散らかっていてごめんねと言っていたけれど、そんなのは気にならないほどドカンと大きいアルトバウ(古いアパート。築100年近いのでは?)。白黒映画で見るようなふるーーーいエレベーターで5階へ。玄関入るとすぐに大きいソファ。本と書類が天井まであふれていると言う感じで雑然としているのだけれど、そこで音楽を演奏し、考え、生活している、根のおりた落ち着きが心地よかった。あと2つアパートの部屋を持っているそうなので、おそらくここはコンピューターベースのスタジオなのだと思う。写真を見れば分かる様に、とてもシンプルなシステムでやっているんだよと言っていた。奥さまで映画監督のイローナと3人でテーブルを囲み、少しの、夢の様な時間を過ごした。


娘は、ベルリンがお気に入りの様だ。知った道を行くがごとく、私の先をどんどん歩いていった。


ウエストサイドギャラリーは、4年前来た時に比べて落書きが深刻な状態だった。写真の彼らは、黙々と落書きを消す作業をしていた。


ベルリン。ベルリンの事を思うと、創意や挑戦の空気で胸がいっぱいになる。今すぐにでもまた行きたい。

娘とはどこにでも行きたい所に行こうと思う。彼女の為になるとか、情操教育とか、そういう気持ちは全くなく、むしろ私のワガママにすまないが付いてきてくれと言う感じ。彼女はまだ小さいから私についてくるしかないのだ。来年もまたどこかに行こうと思う。

2015/11/18

No Journey's End

 

数年前、DJ/プロデューサーの白石隆之さんから紹介されて知ったMichael O'sheaの音楽には、最初の一音を聞いてもうぞっこん惚れ込んでしまった。もちろん今も私のヒーローだ。それはあらゆる意味でなのだけれど・・・。

しかし惚れ込んだはいいが、情報が少ない。呼び方もマイケルは良いとして、オシェアなのだかオシェイなのだか、それすらわからない。どうやらこの1枚のアルバムしかリリースされていないようだ。

その後、彼の音色に触発されて中東の音楽への興味をどんどん掘り下げて行った。図書館である中東音楽に関しての本を手にした時、偶然にもmichael o'sheaの事が半ページほど書かれていた。その本の題名は完全に忘れてしまったけれど、マイケルが「アイルランド生まれ」で「警察官の息子」だったこと、そして大学だか高校だかを中退して、自作の楽器を使いストリートミュージシャンをしていたことなどが書かれていた。

自作の楽器!そしてこのアラブな音色にそぐわない、ビシッと決まったスーツ姿。1枚しかリリースされていないアルバム。なによりも、ストリートミュージシャンであること。その全ての点に私は孤高の音楽家像を重ね、心底、惚れ直したのである。

未だにこのアルバムを手にできていないが、画像検索をするとアルバムに書かれているライナーノーツのようなものを見ることが出来る。そしてそこに書かれていることは、本に書かれていた内容そのままだったのだ。やはりこのライナーノーツしか情報源がないのだな・・・それはまあ良いとして、このマイケル、かなりの変わり者。何がって、、その職業経験の幅広さ。ざっと意味のわかる範囲で、彫刻家・デザイナー・俳優・ソーシャルワーカー・工場労働者・セールスマン・発明家・皮職人・浮浪者・ヒッピー・旅人・音楽家・楽器製作・・・などなど。あとはよく分からないものもある。しかしマイケル自身は、この事に関して特に知ってほしいとも思っていないようだ。

マイケルが演奏している楽器は、彼自作のもので、少なくとも3つの楽器の組み合わせでできている”Mo Cara"というものだそうだ。ダルシマー、そしてアルジェリアの音楽家の使用していたZelochord(これが何の事なのか謎。)、Black Hole Space Echo Boxという自作の楽器、そしてアンプを搭載。詳しく書かれているわりに楽器の全貌が依然謎なのだけれど、マイケルは自分が旅する事を助けてくれた沢山の人々もこの楽器に満足している事を、嬉しく思っているようだ。「世界を旅して周り、人々に出会う事によって生まれた楽器」にふさわしい、混沌とした平和な楽器だ。

Mo Caraは、彼自身が本当に求めいていた音を出すものなのだと思う。どういう経緯でこのアルバムが録音されたのかはよく分からないけれど、彼の音楽は本当に音色が素晴らしく、それを永遠に聞いていたいと思うほど完全なものだ。

多彩な音色を選び組み合わせ、リズムやハーモニーを構築していく方法に対して、一つの音色だけで世界を作ってしまう方法、どちらが上でも下でもないが、私自身は後者に憧れる。遊牧民の素朴な歌のようで。雨の音をずっと聞いていたい、日が沈むのをずっと眺めていたい、そういうものと同じ音なのだ。

※michael o'sheaについてはこちらにさらに詳しいバイオグラフィを発見
※一部訳し間違えていたので、多少書き直しました

2015/08/25

faith

 PHOTO: Kiyoshi Yagi

その人の話しを聞いたとき、また読んだ時に、霊感が刺激されて途端にバッと目の前が開ける様な人々が居ます。音楽家に限らず・・むしろ随分長い事、音楽家ではない人々の話しや考えに触発されて来ています。レヴィ・ストロース、川田順造、堀文子、海童道祖、メビウス、ジェームズ・タレル、セシル・バルモンド、クリシュナ・ムルティ、野口晴哉・・

そしてごく最近では、写真家の八木清さん、水越武さんです。

もう半年以上前の事になりますが、1月末、Photo Gallery Internationalでの写真展「Silat Naalagaq〜世界に耳を澄ます」に合わせて開催された、八木清×水越武 トークセッションへ、とにかくこれは絶対に行かなければならぬ!と嬉々として行って来ました八木清さんの写真や文章に惹かれていたのですが、水越氏の事は恥ずかしながら良く存じ上げないまましかし何かこのトークイベントにはビビッとくるものがあり、即予約をして娘を実家に預ける計画を立て・・当日は夜の旧海岸通を行きも帰りも急ぎ足で駆け抜けました

その小さなギャラリーで繰り広げられていた会話は、思った通り相当に刺激される内容で、半年経った今でも言葉にするにしきれない新たな指標を与えてくれました。

特に、人間の測る事の出来い範囲においての「空間時間・秩序」の感覚を、お2人の実体験を通した言葉から感じる事が出来た事が、素晴らしかったです。

私の「時」や「空間」の感覚は、限られた範囲でのものでしかない。知り得もしない、足も踏み入れられない様な場所においては、その場所に合った時間が流れ、生き物は秩序を持って空間を移動している。そう言う事を想像すると、心が震えました。・・・私自身の時も空間も、もしかしたら別の姿を持っているのかもしれません。

いつか、八木さんや水越さんの見たものを見てみたいと、心から思います。貧弱な現代人としては技術も体力も覚悟も必要ですが・・・そこへ行って初めて知る時間の感覚を、感じたい、そしてそれをやはり音楽に注ぎたいと思います。

水越さんの「写真の構図は、リズム、そして緊張感です」「迷ったら、省く」と言う言葉には、シブい!!!!と叫びたかった・・・!マイルスの「吹く事がなかったら、黙れ」と、重なりました。


2015/08/02

primitive eyes


私の中学生の頃の夢は、「野生動物と生きながら作曲をして生きる事」だった。きっかけは、アフリカに住む獣医の女性が書いた随筆を読み、彼女が野生動物たちと交流しながら生活するさまに心底憧れたからだ。まあ単純といえば単純、いったい野生動物と生きながら曲を作る人物の仕事は何??と謎の多いものだが…当時の私の言いたい事はもの凄く良く理解できる上に、今でもその夢の根本は生き続けている。いや、むしろ近年ますますその根本が問い直されている、エッセンス満載の素敵な夢だ!我ながら。

さて、そんな事を思いながら最近前髪を切り過ぎた娘の髪型を見ていて思い出したのが、『奇跡の少女ティッピ』だ。前述したような夢を持つくらいの私、このティッピの事が昔から大好きだ。ヒョウ、シマウマ、象、ダチョウ、トカゲ、カエル…様々な野生動物とまるでディズニー映画の主人公のように話をし戯れあい、さらにサン族やヒンバ族とも親しく深く交流したフランス人の少女。彼女の両親が写真家というだけあって、ティッピと動物の写真は本当に儚く美しいものばかりだ。

幼い頃から野生動物に囲まれて育ったからといって、誰もが彼女の様になれた訳では無いのだろうと思う。様々な条件が重なってはじめて、ティッピと動物の友との夢の様な関わり合いが生まれたのだろうな。ティッピの生活は都会で生きる人々にとっては非現実的でロマンのある話題だったのだろうけれど、当のティッピにとってはただただ普通で幸せな事だったのだと思う。

私の娘は日本で普通に暮らしているが、当時のティッピと同じ様な目をしている。猫も犬もぬいぐるみもイラストも、 「目」や「口」のあるものはなんでも仲間だと思っている様だ。仲間というか同列というか・・・この平等な感覚は、得難い。これから社会の中でどんどんと区別されて行く感覚だ。一旦区別されて差別されていったものは、何十年もかけて智慧と経験で再びひとつにまとめていくしか無いが、今の娘くらいの年頃の子供の無邪気さは、世界中どこに生まれ育っていても、同じく「ある」ものなのだと思う。それは本来の生の平等を知らせてくれる、大人にしか気付けない大切な事だ。

初めは皆純粋だった。

それにしても、ティッピの鼻歌素敵ね。
  

2015/05/25

magma


もしかしたら、悩める時期と言えるのかもしれない。決して苦しんでいる事はなく、むしろ何が見えてくるのか時間をかけているのだけれど・・今音楽を作ろうとPCの前に腰掛けると、この作り方では今目指しているものは表せないなと分かる。もちろん最終的にはPCを使うことになるのだし、思う様な音楽は『機械』では表せない!という様な気持ちの問題ではないのだけれど。

順序や方法としてはじめからソフトウェアで組み立てていくやり方では、どうしても、言ってみれば時間が正確過ぎるので、考えたり感じる時間が測れず、逆に測られてしまう様な感覚になってしまう。

思っている事を表すのは、今の所「言葉」で行うのが一番早く効率が良いので、現在作曲(?)は専ら紙の上で、音符や言葉を使って記している。また時に自分の声で録音を残している。

なんにせよ、今もっとも掴めず、追求したいものは、あらゆるものに表れるリズム。マグマのリズム、大気のリズム、森林のリズム、動物の跳躍のリズム・・はたまた人の歩くリズム、工事のリズム、言葉のリズム・・。自分だけの独自の、というよりは、何か法則ではないけれど、最終的に人間に心地よく、地の底に隠れているリズムを感じ取りたい。

そんなに複雑な事をしたいわけではないのだけれど・・。

リズムと言えば、妊娠初期の話になるが、お腹の中の胎児(娘)の心臓が動き始めるまでの間、私は何故かリズムのない音楽しか聞きたいと思わなかった。それが数週間たち娘の心臓が動き始めた頃、私は再びリズムの喜びを思い出し、今までの様に体の根底に響く様なリズムの音楽を聞きだした。不思議だけれども、その経験でやはり音楽(リズム)は、心臓に関わっているのだなと、言葉通り腑に落ちた。

ちなみに、妊婦さんやその家族ならばわかると思うけれど、胎児の心音というのは、本当に本当に力強い音!!勿論小さな心音を拾い拡大しているわけだけれども、存在として、強い。そしてとても速い。

そんなこんな事を思いつつ、、じっくりとアルバムを作っていきたいと思っております。

2015/03/11

2015.3.28 sat. MINGUSS Live Information


久しぶりに、ライブの御知らせです。

きっと次にライブをやるのは5年後くらいかな、まさか10年後くらいかなあなんて思っていた、頭の中身・起きている時間の95%が娘で占められている私ですが、急遽ライブのお誘いがありました。ドキドキ。

おそらく2年ぶりくらい、ドキドキ。

2年間の時間は、私の中の音楽の考えにおいてはほぼ動きがないため、お断りしようかとも思いましたが・・ 堀文子さんを敬愛する身としては、「岐路に立たされた時は、未知で困難な方を選ぶ」と言うお言葉に導かれ、ライブをする事に致しました。

岐路と言うには大げさに聞こえましょうが・・。

みなさん、宜しければドキドキしにいらして下さい。

2015.3/28(sat)at Ekoda Buddy
open 15:00 / close 22:30(18時まで再入場可)

Door:2500yen / with flyer:2000yen / Adv or Facebook(※):1500yen
(小学生以下無料)

■Guest DJ
DJ KENSEI(Coffee & Cigarettes Band)
AOKI takamasa(Raster-Noton / op.disc / A.M.)
Ametsub
DJ Emerald (13complex | Synthesmic)

■Guest Live
hajimeinoue(PROGRESSIVE FOrM / SL9)
Minguss

■DJ
石丸鉄平
ヘポタイヤ
DJ 粉塵

■VJ
田中廣太郎
Seitarow Kokubo

■Live Paint
Manabou

■Photo
reiko

■movie
石井陽之

■BOOTH
茶澤音學館

■more info
http://www.buddy-tokyo.com/


2015/02/01

Lebenszeit


ミヒャエル・エンデの「モモ」は、小学生の頃に初めて読み夢中になった物語で、内容もさることながら、その挿絵の世界観に子供ながらに共振し、憧れたものです。

ドイツ語を学び直しているいま再び読み返していますが、やはり1番好きなところは昔から変わらず、時を司るマイスター・ホラなる人物に、モモが「時間」を見させてもらう場面です。その描写がそれはそれはとても美しいので是非本文で味わって頂きたいのですが、つまりモモの見た「時間」とは、生まれては消えて行く、光り輝く美しい花であり、そこには聞いた事の無い様なメロディが流れていると言う様なものなのです。

モモはそのあまりの壮大な美しさに驚き、これはこの世の人間「全ての」時間なのだと思いますが、それはモモただ1人の、彼女だけの時間だったのです。

この様に、もしもその人の持つ時間全てを何か別の形で「見える」様にする事が出来たら、生きて消えて行く事に対してまるで違う感じ方が出来るのではないかと、ふと思いました。もちろんひとりひとりが持つ時間は実際は何年何十年と幅が違いますが、、そしてそれも終わってみなければ分からない事ですが。

例えばもし、生きる時間の全てを別の表現に置き換える事が出来たら、、たったの一歩先・一歩先しか拓けて行かない様な時間を表現出来たら、きっと素晴らしいだろうな・・・と夢を見て、今年も新たな一年が始まりました。

歳を重ね、世が複雑になればなるほど、ただ音楽に耳をすますと言う事を忘れてはいけない、と言うあるジャズピアニストの言葉が、少し分かる様になって来ました。
 

2014/11/07

call to prayer


あるアーティストの方が「Joni Mitchellの"Mingus"は、丘の上に立っている様な気持ちになるから好きだ」と話してくれた事があります。その言葉は私にとって非常に新鮮で、創造に満ちた空気が胸に広がるようでした。以来ずっと、何かを表したい気持ちの原動力になっています。

丘の上で風景を見下ろし、吹き抜ける風を感じる様な素晴らしいこと。音楽には確かに、ここではない何処かの場所を懐かしく感じさせる力があり、その爽やかな力は尽きる事の無い豊かな精神的資源になります。

夕陽が沈んで行き空の色が刻々と鮮やかに変わって行くのを眺める事や、素晴らしい色彩の陰影を見せてくれる山の表情に魅入る事。 それこそが音楽なんだなと、ますます思います。敬虔な思い、と言うものに近いかもしれません。

 作品を作りたい気持ちと同時に、もう少し思考や静かな感動を深めて(広めて?)行きたいと言う気持ちがあります。幸か不幸か、今はまだ作品を作り込む余裕など無いのですが!・・・しかし私が眉間にしわを寄せて思考を巡らせている間に、娘はさっさと成長して行きそうですね。

巡らせている思考がいつのまにか淀んだ水溜まりになってしまわないように、来るべきときには軽やかに次の一歩を踏み出したいものです。

2014/10/05

scene life

Photo by Fan Ho

時は過ぎ、過ぎた時は一体何処へ行くのでしょうか?

川の流れに手をひたすと、手に触れた部分はすぐに過ぎ去って行き、いつでも「今」まさに触れる所にしか触れる事が出来ない、時の流れもそれと同じだと何かで読みましたが、川ならばいずれ海につながり、蒸発して雲になり、やがてまたそれが雨として地上に降ってきます。それでは時も未来へ向かって、やがて海の様な「時の渦」につながり、また雨のように「新たな時、もしくは過去」として降って来るのでしょうか?もしかしたら「時」は限られていて、本当にそういうものなのかもしれませんね。

・・なんとはなしにつらつらと書きましたが、そう、娘は時を重ねて1年とそろそろ3ヶ月を生き抜いて来ております。「自分の時間がない」と言われる育児。正確には、自分の都合で予定を組む事が出来ない、と言う事だと思うのですが、その束縛感を忘れてもう少しぐっと空から鳥のように眺めてみましょう。活きて過ぎ去って行った「時」が、「時の海」へつながり、やがてまた新たな「時の雨」として降り注いで来る、と思えば少しは素敵な感覚になりませんか!世の中のお母さまがた・・。まあ、こう言う思考は赤ちゃんが寝ている時に限られる、と言う事は重々承知しております。彼らが起きてしまえば、そうそう素敵には考えていられないですよね。

さて、最近心がハッとしたのが、Fan Ho と言う中国の写真家の方の60年前の香港の写真です。彼の写真は人々の生活そのものを切り取ったものですが、それは驚くほど美しく、音までも聞こえて来そうなほどに、躍動しているのです。こんなにも「生活」が美しく切り取られるとは・・・。この鋭敏な感覚は、素晴らしいです。

写真とはおそらく、「現実と写真家の思考が融合したもの」だと思いますが、Fan Hoがその時人々の生活を見て強烈に美しいと感じた閃光の様な感動が、画に鮮明に写り込んでいて、心が動かされます。まさに、その時のFan Hoの感動が、時を超えて雨のように私に降り注いだのでしょう。

クリシュナムルティの著書には「重い荷物を運ぶ人々の顔をあなたは観察した事がありますか?」と言う問いが多く出て来ますが、それは「ただそこに在る、名の無い雑草のような、あるいはひっそりと静かに空に向かって生きる大木のような、美しさ」を見逃してはいないか?と言う問いだと思います。Fan Hoの写真を見ていて、クリシュナムルティの問いの一端が見えた様な気がします。

そして、それは今の自分の生活においてまさに忘れては行けない感覚なのだと思います。

2014/06/05

unpredictable


5月のあたまに、子供の頃に住んでいた街でのお祭りを娘と母と見に行ったのですが名物の大太鼓を見学している人々の中に、なんと「鷹」を腕に止まらせている男性がいました。鷹匠だ!ととっさに思いましたが、多分愛玩動物として飼育していらっしゃったんでしょう。快く羽根を撫でさせてもらい大変感激しました。

なにしろ、インディアンの世界では鷹は聖なる生き物。

鷹や鷲の鋭い目、空を切り裂く様な力強い飛翔、そしてその堂々たる美しい造形に私も似非インディアンの様に並々ならぬ憧れを抱いていたので、その御羽根に触る事が出来るとは・・・なんともありがたやな機会でした。もう1歩頑張って、今度は腕に止まらせてみたい。

さてそれから鷹匠自体に興味を持ち色々調べていた際、モンゴルの13歳の鷹匠の少女の記事を発見しましたそしてその美しい写真数々に、ため息が・・・なんとも、息をのむ様な世界がここに。

"A 13-year-old eagle huntress in Mongolia"

この記事の中のとても印象的な一文
The skill of hunting with eagles, Svidensky says, lies in harnessing an unpredictable force of nature. 

『鷹狩りの技術は、いかに予測不可能な自然の力を利用できるかにかかっている

ならされた自然は「美しいな」と思うけれども、本当の自然は、ただただ恐ろしい予測不可能な自然の力、それこそ知恵を振り絞って抗っててい最も恐るべきものです。

たとえそれが一羽の鷹でも、その力に寄り添う、どころか「利用する」とは、なんとも猛々しい。予測不可能と言う事は、失敗する事が前提であるはず。予想以上に失敗してしまった時に、また新たに組み立て直せる技術や精神力を持っていなければ、適わない仕事です。

毎日何が起こるのか、どういう1日になるのか予想が出来ない、娘(もうすぐ11ヶ月!)との生活を思い、自然に振り回されまくりその度に沈没している私は、この麗しき13歳の鷹匠の少女の爪のあかを煎じて飲みたい気持ちになりました。

そして何より、この極寒の冬山で鷹を放っている少女のありのままの美しさを思うと、心の中に大空のような広がりと、猛々しい風が 感じられます。

いつかモンゴルへ、鷹狩りを見に行きたいものですね。娘と!