2025/03/20
2025/03/11
Nude Descending a Staircase
音楽を作ることに関して足りないことを考え出すとキリがない。持てる道具で作るしかないのだとはわかっているが、いつまでたっても、むしろ、やればやるほど満足ができない。
「作曲する」という行いは、どこからどこまでを指すのか分からないし、決まった作り方も、最終的にどうやって曲ができるのかも、明らかではない。まるで霧の中から現れたようにも思える。
今までの大まかなやり方としては、簡単な譜を書き、言葉を書き、ソフトウェアで鳴らし、自分を律しながらそれらを構築する。段々と律せなくなってきて(抗えない情熱に負ける時)、その時々の思いつきや偶然や空耳(この「空耳」がヒントになる時が多々ある) によって想定外の音が加わり、混沌に混沌を重ねてゆき、全くよく分からないものになっていく。そしてある程度煮詰まると、混沌から上澄みが見えて、だんだんと絵になってくる。
・・大抵このような道筋をたどっているのだが、この時点でいつもは完成とさせていたものも、今では何かが足りない。どう見ても聞いても、できたものは「質感のない、平らな絵」でしかないと感じてしまうのだ。起こる出来事やサウンドは、それなりに美しいと思えるものであっても、肉体を通ったものではないのだ。
それは、「ソフトウェア上で組み立てられた音であり、空気を通していない音であるから」ということとは次元の違うことなのだと思う。 例え全てがデジタル上であっても、「そのもの」としか感じられないものもあるはずだ。私はきっと「絵」から「肉体」にする術がまだわかっていないのだ。そのことに気づき始めた、ということが救いではあるのかもしれない。
私は「音」に、まるでそこにあるもののように触れたいのだ。
写真は内容とはほとんど関係のない、マルセル・デュシャン。私の中では全てがとても密接に関わっているので、唐突にご紹介。トイレの便器で有名。墓碑銘が”D’ailleurs,c’est toujours les autres qui meurent.”(「さりながら死ぬのはいつも他人ばかり」)。
2025/03/04
r-h-y-t-h-m
Photo: Eliot Porter
一定の音や音像が常に続いていると、やがてそれは聞こえなくなってくる。どこでそれが途切れるか、無くなるか、ということがとても大切な点で、有ったものが消えることによって周期が感じられて、それがリズムになる。複雑に書き込まれたリズムがリズムというわけではないのだと思う。ちなみに、複雑なリズムが書けない上に、読むのも超億劫だ。演奏者に計算をさせるでない(小声)。さらにちなみに、複雑なリズムを書ける人々、緻密に再現できる人々を尊敬している。
つい先日、高橋悠治さんの完全フリーのセッションを偶然聞く機会があったのだけれど、高橋さんの演奏は、リズムの塊だったように思う。常に鍵盤の上にグルーブしている何かが息づいていて、その周りで演奏されているように感じた。その中心からどれだけ離れるか、またはその中心にタッチするかの塩梅が絶妙で、グルーブの形まで見える様だった。もちろん、響きや選ぶ音、指の鍵盤への触れ方、相手との対話の距離など、すべてが達観されているものだったけれど、それに加えて一番感じたのがリズムの妙だった。
「写真」にもリズムがあるという。Eliot Porterを見た瞬間に「リズム、かくたるや」と髄で感じた。どの写真を見ても完璧に美しくバランスが取られていて、ただの石とかシダとか葉っぱなど、全体の中のそのものの、一番すばらしい時を見せてくれる。私が少しだけ自然の中に入っても、ついぞこのように見えたことがない。
2025/02/28
Sacrifice
リリースに伴い、素晴らしいもので埋め尽くすための簡素な小屋(レーベル)も建てました。音楽的に感ずるものならばなんでも・・・学びになることや、時間に耐えうるもの、他の何かを生み出して行けるようなもの、そういったものを、足を使いながら、なんらかの形にして行けたらよいなと考えています。
レーベルのサイトはこちらです。
── 話変わりまして、
Sacrificeはちょうど、「長いが偉い」時代の作品なので、1回の演奏が約30分です。楽譜やCDなどの物理版(デジタル版ではないという意味)には、ボーナストラックとして2曲追加されるので、総再生時間は2時間近くになります。なお、楽譜には演奏時間の指示がありませんので、きっとつまらないだろうけれど、死ぬまで弾き続けることも可能です。
2025/01/08
Canto Ostinato
シメオン・テンホルトというオランダの作曲家の「Canto Ostinato」という曲がある。
最低1時間以上絶え間なく弾き続けることや(可能であればいつまででも弾き続けることができる)、進行するタイミングが奏者に委ねられていることなどの目立つ特徴に加えて、私が最も惹かれるのは、長い時間を耐え忍んだ後にたまらなく甘美な情景が突然現れてくるところだ。
Canto Ostinatoを演奏会で1度演奏したことがある。その時の前口上で、私はどの口が言ったのか知らないけれど「この曲は、人生そのものに感じる」と言った。でもそれは本心だった。ちょうど、良く知る人の生の終わりを短期間で2度も見た時だったというのもあると思う。
「ある小節を繰り返しているうちに、段々と次に進むのが怖くなってくる。今のこの手の中にある音型にやっと馴染んできたところ、また次に進まねばならない、 間違えるかもしれない、もしも止まってしまったら、と。その気持ちのまま次に進むと、失敗する可能性が高い。でもいつまでもここにとどまるわけにも行かない。
練習ですらその恐怖はあり、困っていたのだけれど、ある時ひとつだけそれを乗り越える方法に気づいた。大したことではないのだけれど、とても意味のあることに思えた。
それは、今弾いている小節の「音」にひたすらに集中するということ。変に集中しようとするわけではなく、耳を澄ます。何かが聞こえてくるまで、次に進まなくて良い。そうすると、本当に不思議なことなのだけれど、まるで音の中で自分の姿が消えていくようになる。恐怖はそれで無くなる。もし生きる中で、次に進む恐怖に足がすくんでしまうようであれば、その時は無理に進むのではなく、何かが見えてくるまでとどまることも良いのではないか。」
もちろん、こんなに長くは話していないと思うが、このような少し重めの事を辿々しく話した。 なんともキラキラしていないタイプの演奏会ですねー
Canto Ostinatoは今でも常に弾くようにしていて、それどころかこのような曲まで作っている。演奏するたびに自分が話した前口上を思い出すのだけれど、今は今でまた違う考えにもなっていたりする。それは、「ほうほうの体でボロボロであろうとも、最後の一足まで前に進んで、倒れる時は前のめりだ」という勇ましいものであったり、「恐怖に飲み込まれてしまうのもまた人生」という諦めモードのものだったり、様々。
本当に面白い曲だ。