2011/03/21

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3月11日の大震災によって被災された方々へ、心よりお見舞い申し上げます。
1人でも多くの人々が、見過ごされる事無く救助され、温かい食事と、安全な場所と、安心が行き届く事を願っております。そして、亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りします。


震災後の一週間ほど、本当にここまでの出来事、感情の変化(感情のダイナミックな変化を全国民が一体化して同時に体験しているのではとビリビリと感じてしまう・・ツイッターを感情的に始終見ていたからでしょう)を今まで感じた事が無く(次から次へと起こる想像を絶する出来事が重なっている訳で、当然ですね)、ただ事の流れの中に身を置くだけでした。

もちろん、今現在も時間との闘いを強いられている方や極限のストレスの中にいる方が多くおられる事を思うと、自分の事を語る事を戸惑います。感情を、被災された方々の方に持って行くと、ただただ飲み込まれてしまう。自分の気持ちを被災者の方のそばにぴたりと持って行く事は私にとって非常に困難な事です。

私も多くの方と同じ様に今まで感じた事の無い様に気持ちが疲れてしまいました。言葉にかえにくいですが、はじめはただ茫然として、次第に自分の事を考える事に追われてしまいました。次々起こる問題がまるで大きな鏡の様に、自分自身をうつしだして行く感覚は初めてでした。恐怖が形を変えてあわられたのでしょうか。

4月からドイツに数週間行く事にしていて、その為に音楽も作って行こうと決心し着手していましたが、震災後は、私の音楽への創造力、想像力はあっけなく壁が塞がった様になってしまいました。今もまだダメなようです。勿論没頭したい思いは常にあるのですが。

音楽などやめにして、看護や治療の勉強をするべきだと真剣に思いました。感情的で子供じみた思いです。その器が無い事が自分には良く分かっているからです。

具体的でしっかりとした支援のシステムに力の及ぶ範囲で協力する事以外は、自分のやれる事・やりたい事は一日でガラッと変わる訳も無く、音楽しか今の所は無いのです。もし私が図書館員だったら、それしか無いのです。もちろんこれから先は分かりませんが。

音楽の出番はあとの方です。人々が想像の余地を埋める事を楽しめるほどの普通の状態になって来た時に、ある一瞬の、一種類の遊び場所として、楽しめるものを少し提供出来たらそれで良いのです。その為に自分の想像を必死に磨いて用意しておく事しか、出来ないなあ、と。

そう思うに至るまで10日ほどかかりました。全く考える事の出来なかったドイツへの旅は、ギリギリの今になってやはり行こうと思える様になりました。もちろんどうして行くのか、覚悟とまでは言わないけれど、きちんと目的をクリアに出来ないのなら行くのは止めようと思っていましたが。

ドイツを訪ねる意思の宣言の様になってしまいました。自分の事、自分の周りの大切な人々、私の感情の及ぶ範囲は実際はそれ以上に広がらないのだろうけれど、自分の身に置き換えて気持ちを察そうとする、という基本的な術と、鳥の様に空から出来事を分別する知恵を絶対に手放さない様にしようと強く思います。


3 件のコメント:

頑固親父 さんのコメント...

違うって、平均を好む国民性の日本人。みんなが下を向いたら前へ進まなくなってしまう。
被災地以外の人間が何事も自重すると経済も回らなくなる。だから、普通に生きること。

音楽を演ってる人は、言葉通り音で人を楽しませる。

で、そう言う才能のない俺は、出来る範囲で募金をしたり、消防団員として行動をする。

適材適所が人間には、あると思う。
・・・・のでは?

Mami Konishi さんのコメント...

頑固親父さん

おひさしぶりです。
この記事の意図は、結局は音楽頑張る、という所でオチをつけたつもりでした・・分かり辛くすみません!
そのためにドイツ行ってきます!

頑固親父 さんのコメント...

御免・・・酔っているので途中までで書き込んだかも。